やっぱりやめた


わたしは自分の意見を述べると、「人を不快にさせてしまうのではないか」と疑い、一挙一動を制限しふさぎ込んでしまう。といいつつ実際にわたしは先読みができるほどの器用さは持ち合わせていないので、だいたいは事後にリセットボタンを押すようなずるがしこい技を使ってしまうのです。

たとえばツイッター。ツイッターでなにか自分が熱を入れて論じるとする。そうするとタイムラインで自分の発言に乗っかってくれる人が現れる。そうして議論をしているうちにそのやりとりを見ているオーディエンスの存在に気づき、。「人を不快にさせてしまっているのではないか」とハッと我に返るのだ。そうしてさもその場から抜け出したかのように黙りこくり、頃合いをみてすべての投稿を消してしまう。

この理解しがたい行為を繰り返してしまうのは、「万人に嫌われたくない」という私のこまった性癖に依るものだと思う。実際、主張には賛否両論はつきものだ。そうして考えすぎるのは自意識過剰である。わたしはそれをよく理解しているつもりなのに、賛を見ず否ばかりを気にして身動きがとれなくなってしまう。そうしてわたしは道化を繰り返しながら、年を経るごとに自ら孤独の中にこもってゆくのだった。

けれど、そんなわたしだって本を読んでたくさんの人と感想の議論をしたいきもちはあるし、何かを表現して誰かに認められたいという欲望は誰よりももっているのです。どんな形で意思を伝えられたら良いのだろうか。文章ではなく音楽だろうか、美術だろうか。何年も悩みながら、いまだに決めかねている。

追記:この文でまたひとのこころをえぐってしまうのでした

Togy magy

未来を夢見てあしたを迷走する都木マキのブログ。ひらがなとサブカルチャーが好きです。

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